日本興業銀行はIBJ(Industrial Bank of Japan)と業界のなかでは言われていますが、本当に優秀な人が多く、楽天の三木谷さんも興銀出身です。そして、融資先も新日鉄やJFEなどの日本の重厚長大産業で、意味合いが少し違いますが、プロジェクトファイナンスの能力に長けた人たちが事業を精査して、融資をし、日本の産業を育成してきたと言うイメージがあります。
その興銀が2300億円も尾上縫が逮捕された時に融資をしていたと聞いて本当に驚きました。2300億円も丸々焦げ付いたら、東証一部上場企業であっても、即死のところは多いでしょうし、地銀であれば消えてなくなるところが殆どだと思います。興銀マンは、重厚長大の超一流企業の審査はできても、単なる料亭の女将の審査はできなかったとw くどいですけど、単なる料亭の女将ですからね。売上なんかは、あったとしても年商で数千万円が良いところでしょう。バブル経済のときは、許永中のイトマン事件、高橋治則のイアイイ(長銀の大型融資先)とか色々ありましたが、インパクトとしてはコレが一番大きかったですね。料亭の女将という職業、そして融資してもらったお金を不動産ではなく、株式投資に回していたということが常識ではありえなかったですからw ちなみに、許永中を裁判所で見た事がありますが、法廷が防弾ガラスで仕切られており、愛人が目の前で傍聴していました。裁判所は、こういう著名人の傍聴を運が良いと見ることができます。闇の世界のキーマンだけに迫力がありましたよ。小谷光浩とか児玉誉士夫 、小池隆一、末野謙一などこの当時のヒーロー級の悪役の名前は挙げればキリがないですけど許永中は、別格という感じがありました。バブルの紳士は殆どが消えてなくなりましたが、生き残っているのは、銀座や中洲の丸源で有名な川本源司郎くらいじゃないでしょうか。銀座のビルはボロボロに近いですけどねw
当時は色々ありましたね。損失を出すにも2パターンあり、本業か本業以外かということです。本業以外とは、簡単に言うと金融商品とかで損失を出していると言うことです。経理的な視点からすると、営業利益は出していても、経常利益のところで思いっきり特別損失を出しているケースとかでしょうか。リスクの高く、資産と負債を思いっきり抱えるビジネスモデルとしては商社がその代表格ですが、安宅産業がオイルサンドで潰れたことや住専やゼネコン、不動産会社が不良債権を抱えた問題は、あくまで本業やその周辺の問題であり、いわゆる財テクでの損失ではないのがそもそもの問題でありんす。特に、不動産やゼネコン関係は、不良債権を処理しても処理しても、不動産の値下がりが急激過ぎて、処理をしても、再処理と言ういたちごっこでしたし。
日本の「古きよき時代」ですけど、世界の企業ランキングを見ると、その当時は都銀が、世界ランキングの資産の部とか、時価総額とか、いろんな面でトップ10に何行もランキングされていたことは、今の若い世代の人は信じられないでしょうw だって、尾上縫に融資をした消えてなくなった興銀なんかは、世界トップだったんですよw 11兆円以上あり、世界のIBMやGE、オイルメジャーのエクソンすら凌駕していました。今は、時代も変わってフォーブスのランキングを見ると40兆円越えとかありますが、これは世界的に進んだ合従連衡が効いていた事もあります。それにしても、トップ10に6行も日本の都銀が入っていたなんてすごいなw 今、名前が残っているところはもちろん、一つもありませんけどねw それだけ、金融界は、整理がものすごい勢いで進んだんだなと思いましたよ。
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このランキングの中には入っていませんが、都銀として名を馳せた大和銀行も問題を起こしています。いち嘱託行員の井口俊英氏が起こした国債の損失の隠蔽事件は、大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件として知られ、最終的には大和銀行がアメリカから追放されることにも繋がりました。その頃は、バブルの頃の損失の先送りの為の金融派生商品としてのデリバティブもそうですが、資産運用やリスクヘッジとしてのデリバティブも活用されていましたが、ヤクルトのように巨額損失を出す会社が多かったですね。あと有名どころの巨額損失ですと住友商事の非鉄金属部の浜中泰男さんがLMEの銅の取引で約3000億円も損失を出したが、浮利を追わない住友家の家訓を守っていたのか、住友商事は磐石な財務体質を持っていたのでビクともしませんでしたが、尾上縫は大激震を起こし、貸し付けた銀行に相当大きな穴を開け、バランスシートが大きく毀損したと思います。なにせ、銀行は自己資本比率が製造業とかと比べてむちゃくちゃ低いですからね。業種が違う、リスクマネージメントが全く違う、資産を有効活用しているとか言われたらそれまでですが、自己資本比率が10%を超えたら優良の部類に入っちゃうぐらいですからね、製造業からしたら、そりゃないだろう?と思いますよ。
住専とかいろいろこの頃は言われていますが、個人が出した損失としては、この金額はあまりにもでかすぎます。参加者が少なく、流動性の少ない相場の手仕舞いだったため、損失が拡大した面は否めませんが、住商の3000億円は結構インパクトがありましたね。住友商事の問題は、日本固有の問題であったバブルとは関係ありませんでしたが、バブルの崩壊は余りも大きくあらゆる面で日本の凋落を感じましたね。関西界の経済界を仕切っていたとも言える住友銀行は、名古屋支店長が射殺されたり、東京本部前でバキュームカーがウンコを逆噴射したりで大変な時代でした。それに比べると、住友財閥は個別では色々ありましたが、三菱財閥、三井財閥では、このような話はなかったですね。やはり、関西系とそれ以外ということなんでしょうか・・・・。週間ダイヤモンドのランキングモノでは、常に、「付き合いたくない銀行」のトップを独走していましたが、正直、事務効率や業務純益でも都市銀行というよりは、銀行の中でダントツだったんですよね。決算期に残高証明書を発行するようなことでも、農林中金は二、三人が30分程も要するような仕事のトロさでしたが、住友銀行は、一瞬で発行を終えましたからw 融資先に熊谷組やフジタのようなゼネコンを抱え、不良債権処理でも相当苦労したと思います。また、「闇の世界の貯金箱」とも言われた平和相互銀行なども吸収合併(なお、会社としての存続会社は平和相互銀行でした、おそらく節税のためです)し、それだけでも一般人が精神的にも参ってしまうようなこともこなしてきました。住友銀行出身者と聞くと、今でも敬礼をしてしまうのは、正直、仕事が他の都市銀行や特殊銀行に比べてデキルということ以外に、こういう事情があってのことです。行員は、夜も眠れないこともあったでしょう。街を歩いていても常に注意を払っていて、気が気ではなかったでしょう。今の人は、このことをあまり知らないのでしょうが、それほど住友銀行は、世の中の汚れ仕事を引き受け、こなしてきたのです。また、ゴールドマンサックスへも少なくない金額を出資していたのです。道路公団の解体の時に、藤井治芳日本道路公団総裁が「そんなことをしたら、死人が出る」と言う発言をしましたが、住友銀行が関わった問題は余りにも闇が深く、名古屋支店の支店長も射殺され、実際にお亡くなりになっています。また、住友銀行青葉台支店、なども有名ですし、店の前でバキュームカーがウンコを逆噴射した事件なども記憶に残っています。そんな意味からも、住友銀行には敬意を表しています。正直、裏稼業の人たちがなぜ、危ないことに手を染めるかというと、そこに旨みがあり、儲かるからなんですよね。基本的にヤクザのお仕事は、警察と弁護士とかぶることが多いのですが、警察は国家権力を背景とした国公認のヤクザですし、弁護士もなるにはかなり難しいと。複雑な世界、収益の出るところに果敢に取り組んでいたのが住友銀行です。今はなき「住友銀行とは一体何だったのか?」という名スレでいろいろ語られていましたが、懐かしくなりました。
金余りの時代ではあったとは言え、日本が狂乱していた時代、二度とこんな時代は来ないでしょう。かつては10行以上あった都市銀行も綺麗に整理され、メガバンク3行体制になりましたし、エリートの就職先であった長期信用銀行は全てきれいサッパリ消えてなくなりました。高度経済成長期を終え、成熟期に入ったため、役目を終えたってことでしょうか。本当に隔世の感というか、時代を感じますよね。証券業界も、ガリバーの野村證券がダントツの一番で、あとは大和証券、日興証券以外はぱっとしないですからね。かつては、4大証券とかいって、山一證券(ソロモンブラザーズの副会長にまでなった明神茂氏などが在籍)も入ってましたが・・・・これも消えてなくなり、今では人々の記憶にすら残っておらず、名前すら知らない人も多い時代になりました。女帝尾上縫の件で、色々思い出してしまいましたよ。
●Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/尾上縫
尾上 縫(おのうえ ぬい、1930年2月22日 - )は、大阪府大阪市千日前にあった料亭「恵川」の元経営者である。
バブル絶頂期の1980年代末、「北浜の天才相場師」と呼ばれ[1]、一料亭の女将でありながら数千億円を投機的に運用していた。しかしながら、景気の後退とともに資金繰りが悪化、金融機関を巻き込む巨額詐欺事件を引き起こした。
【職業】実業家、霊媒師、詐欺師
【人物】
自身が女将を務める料亭の客らに対して、占いと神のお告げによって株式相場の上昇や競馬の勝ち馬などを見事に言い当てるとして評判となり、そのために料亭は繁盛した。バブル景気前夜の頃までには、それらの予想も神懸かり的なものとなり、多くの証券マンや銀行マンらが尾上に群がるようになった[1]。
巨額詐欺自らも銀行から多額の融資を受けて株式の売買を行うようになった尾上は、バブル絶頂期の1988年(昭和63年)には、2270億円を金融機関から借り入れ、400億円近い定期預金を持っていた。また、株取引では48億円の利益を得、割引金融債ワリコーを288億円購入し、55億円の金利を払っていた。
しかし、バブル景気に陰りが見えるとたちまち運用が悪化して負債が増加するようになった。以前から手を染めていた詐欺行為を本格的に始めた尾上は、かねて親交のあった東洋信用金庫支店長らに架空の預金証書を作成させ、それを別の金融機関に持ち込み、担保として差し入れていた株券や金融債と入れ替え、それらを取り戻すなど手口で犯行を重ねた。逮捕されるまでに やがて証書偽造が発覚、尾上は1991年(平成3年)8月13日に詐欺罪で逮捕された。この時点までに尾上らは、ノンバンクを含む12の金融機関から3420億円を詐取していた。また、金融機関からの借入金総額は、のべ2兆7736億円、支払額はのべ2兆3060億円に達しており、留置所で破産手続きを行った際の負債総額は4300億円で、個人としては日本で史上最高額となった。
裁判で尾上の弁護人は、尾上に株式の知識が全くなく、周囲に踊らされていただけであり、責任能力はないと主張したが認められず、懲役12年の実刑判決を受けた。
巨額の融資を行った日本興業銀行は富士銀行と合併しみずほコーポレート銀行(存続会社は富士銀行)となり、また、東洋信金は経営破綻し府下の複数の信金へ分割併合されており共に現存していない。
【巨額詐欺事件】
自らも銀行から多額の融資を受けて株式の売買を行うようになった尾上は、バブル絶頂期の1988年(昭和63年)には、2270億円を金融機関から借り入れ、400億円近い定期預金を持っていた。また、株取引では48億円の利益を得、1987年から日本興業銀行の割引金融債ワリコーを288億円購入し、55億円の金利を受け取っていた。同時期に興銀はワリコーや同行への預金を担保に尾上に融資を始めるが、これは銀行にとっては、焦げ付きのリスクがまったくない、うまみのある取引で、行内では「マル担融資」と呼ばれ、1989年には融資残高は586億円にのぼった[2]。金融の自由化により銀行間の競争が激しくなり、融資先の開拓に苦慮していた興銀は、個人顧客の資産管理を総合的に手伝う「プライベートバンキング」といった中小企業や個人との取引に力を入れており、尾上に対して不動産投資も勧め、1990年8月には尾上の資産管理を行なう「株式会社オー・エヌ・インターナショナル」を設立した[2]。
しかし、バブル景気に陰りが見えるとたちまち運用が悪化して負債が増加するようになった。89年の延べ累計額では借入が1兆1975億円、返済が6821億円で、270億円の利息を支払った。90年末には、2650億円の金融資産を保有していたが、負債も7271億円に膨み、借入金の金利負担は1日あたり1億7173万円にも上っていた[2]。以前から手を染めていた詐欺行為を本格的に始めた尾上は、かねて親交のあった東洋信用金庫支店長らに架空の預金証書を作成させ、それを別の金融機関に持ち込み、担保として差し入れていた株券や金融債と入れ替え、それらを取り戻すなど手口で犯行を重ねた。
1991年8月初旬に尾上は東洋信金の架空証書の件を興銀の担当者にだけ打ち明け、興銀は自行の債権33億円を売りぬけて回収[2]、やがて証書偽造が発覚し、尾上は1991年(平成3年)8月13日に詐欺罪で逮捕された。7億円の保釈金を用意し、1992年3月に保釈[6]。同年6月、大阪地裁で破産宣告[2]。この時点までに尾上らは、「ナショナルリース」らノンバンクを含む12の金融機関から3420億円を詐取していた。金融機関からの借入金総額は、のべ2兆7736億円、支払額はのべ2兆3060億円に達しており、留置所で破産手続きを行った際の負債総額は4300億円で、個人としては日本で史上最高額となった。
裁判で尾上の弁護人は、尾上に株式の知識が全くなく、周囲に踊らされていただけであり、責任能力はないと主張したが認められず、1998年3月懲役12年の実刑判決を受け、2003年4月、最高裁が尾上の上告を棄却し、実刑が確定した[2]。
巨額の融資を行った東洋信金は経営破綻により消滅し、預金保険機構の金銭援助を得て資産(正常債権)を三和銀行が、店舗網は府下の複数の信金へ譲渡された。また、ノンバンク最大の貸し手であるナショナルリースの担当社員が特別背任罪で逮捕されている。同社はこの期の不良債権をグループのサービサーへ債権譲渡し、1998年までに親会社の松下電器が未収債権について損失負担する形となり、2001年に松下クレジットとの合併を経て2010年に「住信・パナソニックフィナンシャルサービス」、さらに2012年に三井住友トラスト・パナソニックファイナンスとなっている。
信仰[編集]
高野山で得度したと称し、日曜日には庭の弘法大師像を拝むことを習慣にしていた。多くの証券マンも訪れて一緒に祈り、高野山や小豆島への参指旅行にも同行した[5]。
1970年(昭和45年)暮れ、清風学園創設者である平岡静人によって、高野山金剛峯寺報恩院で得度の路を開かれた。平岡によって名付けられた得度名は、純耕。
平岡一族との親交は深く、同一族が主催するチベット仏教寺院・ギュメ寺(南インド)への開眼ツアーにも参加している。この際、尾上は2,000万円をギュメ寺に寄進したが、平岡一族は寄進は自身らによるものだと主張している。また、同ツアーで尾上は、平岡ともども宗教指導者・ダライ・ラマに面会した。その後、平岡はダライ・ラマを念仏宗無量寿寺に紹介した。
●バブルの時代、バブルの経済
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