2017年1月15日日曜日

本田宗一郎の伝説等、戦後は奇想天外な経営者がたくさんいました

本田宗一郎という本田技研の創業者は、戦後だからこそ生まれた名経営者であって、これが現代だったら難しかったでしょう。そもそも、今の時代は、製造業でこれだけの企業規模にするのはとても難しいし、既に寡占・独占の市場になっている産業においては、仮にできたとしても時間は3倍以上かかるでしょう。

それにしても、下記は本田宗一郎に関しての引用なんですけど、本当に伝説的な経営者だなと思いましたよ。彼が一番後悔しているのは、自分の名前を会社名にしてしまったことだと言われており、本当に伝説の男だなと思いました。

あとは、従業員一人ひとり握手をして回ったってスゴイなと思います。アメリカでは、トップがわざわざ現場に来て握手をしてくれたことから労働争議も起きなかったといいますしね。まぁ、今のホンダにはそんなスピリッツは全く残っていませんが・・・・。
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・CVCCエンジンの開発に成功した時に「車が売れる」と宗一郎は喜んだが、CVCCの開発に携わった者達から「排ガスによる公害を減らすためにCVCCを開発したのであり、売上げのために作ったのではない」と叩かれさめざめ反省。

・ある日、宗一郎が工場を巡回していると、若い工員から「おいっおっさん!なにズボンのポケットに手突っ込んで歩いてんだ!転んだらどーすんだ!」と注意された。その後「正装のズボン」からポケットが全て取り外された。現在もズボンのポケットは無い。

・「ほんとは、現職にいる時、うちの社員と名のつく人に全部あって握手してやりたかった。

社長を辞めて、やっとその念願を果たすことができた。日本国内で700ヶ所、回るのに1年半かかったよ。

それから海外の駐在員のところを飛行機で回った。それも半年かかったもんだ。うちの社員でありながら、オレの顔を見たことがないのが大勢いるんだ。ことに地方の出張所や、SFというサービス機関の社員とかね。

一人ひとり手を握ったんだ。オレは涙が出た。むこうの若い連中も泣いたよ。けど、オレは士気を鼓舞するなんて気じゃない。自分が嬉しいからやるんだ。オレは社長を辞めて、やっと人間らしいものにいきあったよ。」

・「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」

・米国に初めて工場を建設した際、「正装」のツナギ姿で現れ、現地工員ひとりひとりと握手して激励した。工員たちは、伝説的存在であるミスター・ホンダが自分たちと同じ格好で親しく接してくれたことに感動し、米国に進出した日本企業を必ずと言ってよいほど悩ませていた労働争議が、ホンダに限っては一度も起きなかったという。
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良く松下幸之助が生きていたら、パナソニックでリストラをしなかったという人が居ますが、それは高度経済成長期の踊り場であり、市場が伸びていたから、数年頑張れば耐えきれたことであり、今の大手電機が壊滅状況になっている状況を見ると、流石に松下幸之助が生きていたとしても無理だったと思います。

東芝なんかは、本当に原子力事業の処理を適正にしたら、会社なんか跡形もなくなくなってしまうぐらいのインパクトがあるんですよ。



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