映画の世界ではありませんが、人の記憶や経験を自分のものにできたらと思ったことはないでしょうか?脳の解析ができ、記憶・経験の保持の仕組みがわかれば、人の記憶を簡単に書き換えることができるでしょうし、経験を擬似的に与えることも可能でしょう。映画やゲームが現実と仮想の世界の垣根を低くし、様々な問題を起こしていると指摘している人がいますが、この指摘はあながち間違いではないと思っています。
学問の功績は以前に指摘しましたが、知識や経験を文字等で体系的に残す事によって試行錯誤を減らし、プロセスにかかる時間を圧倒的に減らしました活版印刷の登場と言うのは、その意味では画期的でした。それが直近ではインターネットであるわけです。それからコンピューターの普及がそれを後押ししたような気がします。
人の知識や経験を電気信号などで他の人に移転できれば、タイトルにあるように初等教育や中等教育の必要性はなくなります。学校として必要なのは、コミュニケーションの場、人脈を作る場、そして社会性を身につける場としての意味しかなく、研究機関として大学のみが必要となるだけです。また、人工知能が商用ベースに乗って、人間と同等かそれ以上の効果を発揮できれば、管理するだけの人員のみで済みます。その意味では、単純事務や単純労働は駆逐される運命にありますし、すでに今でも付加価値はあまり産まないものとして、給与は低く抑えられています。
ロボットの普及と言うのは、タクシーやトラック、バスなどの運転手の仕事を奪うでしょうし、建設現場や工場などでの作業員の仕事も奪うでしょう。残るのは高度技術が必要なものか、よほどクリエイティブなものになるのではないかと思っています。
個人的には、多くの弁護士や公認会計士、税理士など、いわゆる難関資格と言われる士業(サムライ業)というものも駆逐されると思っています。なぜなら、コンピューターが判断をしてくれるからです。場合によっては、裁判官などもなくなるかもしれません。特に裁判などは、過去の判例に拘束されるわけで、そのようなDBと言うのはコンピューターが得意とするところです。
近未来、多くの仕事が無くなるのは、時間の問題ですし、コンピュータとインターネットが加速度的にそれを助けるような気がします。
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